著者:永井康徳
みかんの花香る、懐かしい我が家へ
「家で死にたい。家が一番です」看取りを含めた自宅での加療を希望されたナツキさん(90歳男性・仮名)のお宅は、のどかな丘陵地にあり、代々みかん農家です。「紅まどんな」という愛媛産の希少なみかんを育て、品評会では表彰されるほどでした。人生の最期を過ごす場所は当然我が家で ― ナツキさんの選択に、迷いはありませんでした。
訪問診療開始時のナツキさんは、慢性心不全、大動脈弁狭窄症の進行に加え、徐々に認知機能の低下がみられていました。ナツキさんの奥様は数年前にご逝去され、その際も当院がお看取りの支援で関わったのですが、肉親が家で最期を迎える経験をしているためか、終末期に身体の負担になる点滴をしないこと、食べられる分だけ食べて自然に看ていくことに対して、ナツキさんもご家族も理解がありました。ナツキさんは息子さん夫婦と同居され、お嫁さんが熱心に介護しています。愛犬のゴールデンレトリバーは大切な家族の一員なのでしょう、診察時には部屋のドア付近でナツキさんの様子をじっと見守っていました。
毎日大勢のスタッフが次々にやって来ると、かえってしんどくなることを心配したのですが、「見てもらえる方が安心して本人もよく食べているようです」というお嫁さんの言葉を受け、管理栄養士は昼食時に訪問栄養指導を開始しました。患者さんの食べたい物を叶える「kanau(かなう)プロジェクト」という企画では、和菓子好きなナツキさんのために、こし餡とお粥ゼリーですぐに飲み込めるなめらかなおはぎを作り、当院調理師も同行しておはぎの作り方を説明しました。おはぎを口に入れたナツキさん、「これは甘い。おいしい!」と笑顔で喜ばれたそうです。ご家族が食事準備で疲弊することがないよう、工夫してアドバイスすることは食支援の大切なポイントです。
その後、食事量がごく僅かとなり、日単位の余命と予測されるなか診療に伺った時のことです。お茶をスポンジに含ませ、お嫁さんは水分補給の介助中でした。私は介護者のお嫁さんに、「いちごの果汁などナツキさんの好きなものをあげていいですよ」とお話しし、「不安な時はいつでも連絡ください」と伝えました。帰り際にお嫁さんは、「次回の栄養士さんの訪問は、もうこんな状態なので・・食べられない状態で来てもらっても・・」と訪問を遠慮されました。私は、当院の管理栄養士であれば、必ずナツキさんやお嫁さんに寄り添う栄養指導をできるという確信があったので、「分かりました。ただ、栄養士にできることがあるなら、来てもいいですか?」と提案しました。「はい、それならお願いします」そう言われたお嫁さんの表情には、当院への信頼の気持ちが感じ取れたのです。しかし数日後、管理栄養士の訪問日を迎える前に、ナツキさんは眠るように亡くなられました。早朝、お嫁さんが気づいた時には呼吸をしておらず、非常に穏やかで今にも起きてきそうだったとお話しされました。
何もできない時でも、見守る栄養指導
栄養士として終末期の食支援に取り組む時、「少しでも食べられるように何か働きかけないといけない」と、専門職としての使命感、義務感が生まれます。しかし、日毎に身体症状が変化する患者さんを目の当たりにした時、「今、食支援を進めることは間違っているのではないか?」と、患者さん側の希望とリスクの板挟みになり、葛藤することが多いのです。患者さんに対して何もできないと感じた時、栄養士として一体どうすればいいのか・・。何度も悩み続けたことでしょう。
介入するのではなく、「意思を持って見守る栄養指導」―これはもちろん、専門職としての関わりを放棄することでは決してありません。今、食支援としてできることがなくても、患者さんとご家族の傍にいて状態を見守り、不安な気持ちや感じていることを受け止め、継続して関わり続けるのです。いつか人は食べられなくなり、亡くなっていくことを患者さんもご家族も分かっておられます。できることがない状態になった時、できることがない状態に今いることを、医療従事者として一緒に受け止められないだろうかとも思うのです。そのような不安なときに、一緒にその場所にいるBeingの立場も大切だと思うのです。
管理栄養士は、次回の訪問にどのような準備をしていたのでしょうか?できることが今ないとしたら、どのような選択をしたのでしょうか?管理栄養士は後日、「当院の理念である『Being ―支え、見守り、寄り添う医療』をまさに患者さんから教えていただいた気がします。 何かをしなくてはいけない、そのような気持ちで訪問栄養指導に行っていましたが 、患者さんに何もできない時でも、その様子を意思を持って見守り、共感するBeingの栄養指導をこれからも迷うことなく実践できたらと思います」と話してくれました。
「意思を持って見守る」という行動は、また動き出せるための力を患者さん・ご家族と共に温める原動力になり得るのかもしれません。介入するのではなく、見守る栄養指導も意義があると私は思います。