著者:永井康徳
終末期に本人の意思を尊重すること、患者の痛みや苦痛を取り除くことは最優先されるべきですが、同時に家族の後悔が少なく、納得できる看取りにすることも忘れてはなりません。このことを私は「看取りのプロデュース」と呼んでいます。
83歳のヒサノブさん(仮名)が食道がんと診断されたのは半年前のことです。しかし、すでにがん細胞が動脈や気管にまで広がっていて手術も放射線治療もできない状態で、1ヶ月もすると食道の通過障害で胃ろうも必要になりました。化学療法は受けていたのですが誤嚥性肺炎を何度も起こしたため、中止されました。
病院の主治医から予後は2、3ヶ月、肺炎による急変もあると言われた時には、誤嚥性肺炎で入退院を繰り返したこともあって「もう入院はしたくない、自宅で療養したい」とヒサノブさんと奥さんは在宅医療を選んだのでした。
大病することもなく83歳まで生きてきたヒサノブさんが、たった半年で酸素吸入や胃ろうが必要な状態になり、予後まで宣言されたのです。現状が受入れ難いことは容易に想像できました。訪問診療の初診で当院の医師が今後の方針を提案しても、ヒサノブさんは素直に受け入れることができなかったようです。「体調が良いのになぜ来るのか?体調が悪い時だけ来るものだと思っていた」とか、少しでも楽に過ごしてもらえるように医療用麻薬を提案しても「それは最後に使う薬だから、使いたくない」と言われたのです。さらには「自分はバカじゃないから、長く生きられないのはわかっている。でも、最初から外科で手術を受けたら違っていたのではないかと思う」とも言われ、悔しさや怒りを医師にぶつけているようでした。
結局、ヒサノブさんは医療用麻薬だけでなく、医師が提案した介護認定申請や介護ベッドの利用、訪問看護もすべて「今の自分には必要ない」と拒否。初診を終えた医師を見送りながら、奥さんはすまなさそうに「後で主人に話しておきます」と言われたのでした。
初診では頑な様子のヒサノブさんでしたが、すぐに少量の医療麻薬を服薬しはじめ、介護認定申請も行うことになりました。しかし、10日もしないうちに誤嚥性肺炎を発症して39度を超える高熱を出したのです。
往診で駆けつけた医師が入院治療を提案しましたが、意識が朦朧として答えられないヒサノブさんに代わって奥さんと同居の息子さんが「もう病院には行きたくないと思っているはず」と本人の気持ちを推しはかり、このまま自宅で治療することになりました。そして、これを機に訪問看護も利用することになったのです。
点滴治療を受けながら解熱と発熱を繰り返していましたが、ヒサノブさんを最も苦しめたのが粘稠痰でした。粘り気の強い痰が気管にあふれ、吸引をいくら行っても痰が取れきれないのです。痰によって狭い気管がさらに狭窄し、ひどい呼吸困難になっていました。呼吸苦や倦怠感のために往診の依頼も増えて、毎日のように医師や看護師が訪問するような状況でした。
胃ろうからの注入量を減らしたり、苦痛を軽減するために医療用麻薬の種類や投与方法もヒサノブさんの状態に合わせて変更していきましたが、通常使用する医療用麻薬ではコントロールできないまでになっていました。院内のミーティングでは、鎮静剤を投与して意識を下げるしか方法がないという話が出ていました。
私が初めてヒサノブさんの往診に伺ったのは、このような切羽詰まった状態の時でした。ベッドの側には、奥さんと県外から帰ってきたばかりの娘さんがいて、奥さんは「とにかく楽にしてやってほしい。鎮静剤を使うことでたとえ死ぬのが早まってもいいから、楽にしてやってください」と言われたのです。息子さんは仕事で不在でしたが、電話で意思を確認したところ「母の意思を尊重します」と言われました。
鎮静剤は意識を低下させるため、患者さんは痛みや苦しさを感じなくなりますが、深く眠った状態になるので体を動かすこともなく、話しかけても触ってもまったく反応しません。亡くなるまでずっとこの状態が続くため、鎮静剤を投与することは、ご家族にとっては一つの「別れ」になります。
ずっと看病してきた奥さんや息子さんは覚悟ができていましたが、帰ってきたばかりの娘さんは前回会った時の元気な父親の姿とのギャップもあって、鎮静剤の使用を躊躇していたのです。「まだちゃんと話もできていないのに・・・」という無念さを滲ませていました。
私がこの時に考えたのは、「どうすれば、この家族の後悔を少なくできるか?」ということでした。患者のことだけを考えたら、鎮静剤を使用するべきなのですが、今、この状況でそれをすると、ヒサノブさんが亡くなった後、娘さんには一生消せない後悔を残すことになると思ったのです。
私は「一晩でもいいから、娘さんが家族と話し合う時間、考える時間を作ろう」と考えました。しかし同時に、ヒサノブさんを楽にする方法も提案しなければ奥さんは納得しないだろうということもわかっていました。
ここは在宅医としての腕の見せどろこです。奥さんには医療用麻薬の配合や量を調整することでヒサノブさんを今よりも少し楽にする方法を提案し、娘さんには一晩家族で十分に話し合ってもらうように伝えて納得してもらいました。
翌日の院内ミーティングでは、娘さんの気持ちを確認した上でヒサノブさんに鎮静剤を投与する方針になりました。しかし、奇跡が起きたのです。診療の前に訪問していた看護師が懸命に吸引していたところ、痰がきれいに除去されて、呼吸苦がなくなったのです。胃ろうからの注入を減らした効果かもしれませんが、とにかく鎮静剤は不要になりました。
再度、私が訪問した時に娘さんに気持ちを伺ったところ「あれから気持ちが落ち着いて、父を楽にすることを優先したいと思えるようになりました」と言われました。それから亡くなるまでの数日間、ご家族はヒサノブさんが好きだった音楽をかけながら3人で交代して看病し、穏やかな時間を過ごせたようでした。
ヒサノブさんが息を引き取った時、奥さんと娘さんは外出中でした。二人で葬儀社に打合せに行っていたそうです。そんな打合せができるほどに、ご家族はヒサノブさんの死に向き合えていたのでした。「最期の瞬間をそばで見ていなくていい」ということはかねてからご家族には説明していたので、最期に立ち会えなかったことで取り乱すこともなく、「最期は楽に逝けてよかった」とおっしゃっていました。
いざという時に提示できる選択肢の幅が、看取りをプロデュースする力になります。選択肢の幅を広げるために専門知識の習得に励むこと、そして、残されたご家族の将来にまで思いを馳せることが看取りの質を高める、看取りのプロデュース力になるのだと、私は今回のことで強く感じました。