たんぽぽコラム

おうちでの看取り

著者:永井康徳

  

第39回「あの時、何を伝えたかったのだろう?」、患者の死が研修医に教えたこと


研修医のプレゼンテーマは「生と死」
「早めに・・・してください」と、死期が迫ったALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが動きにくい唇を必死に動かし、弱々しいかすれ声で当院の訪問医に何かを訴えました。研修医も同行していて、医師や看護師が5人がかりで「何をして欲しいのか」を40分かけて必死に聞き取ったのですが、残念ながら分からずじまいでした。翌日、患者さんは亡くなり、研修医は肝心な箇所が聞き取れなかったことを大いに悔やんだようです。研修終了時、研修医はこの患者さんをテーマにした「生きかた・死にかた」というタイトルのプレゼンを行いました。
たんぽぽクリニックでは、年間20名以上の研修医を受け入れていて、地元の愛媛大学医学部附属病院はもとより、東京大学医学部附属病院や慶應義塾大学病院、埼玉医科大学病院、近畿大学病院など関東や関西からも研修医が来ています。研修医には1ヶ月の研修終了時に、当院で学んだことを職員の前で発表するという課題があります。
この研修医がテーマとして取り上げたALS患者さんは、71歳のサトルさん(仮名)でした。研修医はサトルさんの人生にも関心を持ったようで、プレゼンもサトルさんの生育歴から始まりました。

サトルさんは愛媛県内のある都市で4人兄弟の末っ子として生まれ育ち、大学卒業後は金融機関に勤め、そこで妻となる女性と知り合って30歳で結婚。結婚後、妻の実家の家業を手伝うために仕事を辞めて、妻の実家がある他県へと移り住みました。3人の子どもを授かり、家業でも社長を務めるなど、サトルさんの人生は順風満帆でした。しかし、結婚して10年経たずして仕事を辞めて、海外の大学に1年間留学をしたのです。なぜ、家業を手放してまで留学をしたのかの理由はわかりません。そして、留学を終えて帰国したものの、妻とはうまくいかなくなってしまい、別居の後に離婚してしまいます。子どもは妻が実家で育てることになり、サトルさんは一人で地元に帰ったのでした。
地元でサトルさんは、得意の語学を生かして語学塾を経営していました。元妻は離婚の数年後に亡くなり、子どもたちは元妻の実家で祖母に育てられたこともあって20年ほど絶縁状態だったそうです。しかし、孤立無縁で生きてきたというわけではなく、兄夫婦の近隣で暮らし、兄の畑仕事を手伝ったりして、自身の兄姉とは良好な関係が築けていました。また、60歳頃には子どもたちとの交流も再開されたそうです。そんなサトルさんに病気の兆候が現れたのは69歳の時でした。
嚥下機能が低下し、思うように喋れないといった症状が最初でした。四肢の筋力も徐々に低下していき、1年経った70歳の時にALSと診断されます。兄夫婦の支援や介護サービスを利用して自宅で療養生活を送っていましたが、兄夫婦も高齢のために介護が難しくなり、松山市内の施設に入所することになったのです。

延命を望まない患者の終末期
施設入所と同時に当院の訪問診療も始まりました。初診時のサトルさんは、食事はペースト食を全介助で摂取していて、排泄は日中なら車椅子に移乗してトイレが利用できました。ただ、重度の構音障害のために声量が小さく、お話しをされても単語がなんとか聞き取れる程度だったのですが、文字盤は「疲れる」という理由から使用には消極的でした。主治医が「今後、病気が進行して食べられなくなったり、呼吸ができなくなったりしますが、その際にどうされたいですか?」とサトルさんと、サトルさんの姉や兄夫婦に尋ねたところ、サトルさんは「点滴や人工栄養、人工呼吸器は使用しない。発熱などの急変時にも救急病院への搬送は希望しないので、在宅医療で可能な医療のみで良い」と言われたのです。また、姉や兄夫婦も、本人の意思を尊重したいと言われたのでした。

その2週間後、サトルさんは発熱し、肺炎の兆候があったために抗生剤のみの点滴を実施したところ、2日後には平熱に戻りました。しかし、嚥下機能はさらに低下していて、食べても飲んでもすぐに吸引して除去するような状態になってしまいました。発語はさらに難しくなり、口の開閉でイエス・ノーを表明する程度です。往診した医師は、肺炎が完治するまで輸液と絶食を提案したのですが、サトルさんははっきりと「ノー」と意思表示されました。このまま水分も栄養も摂取しなければ、数日で亡くなる可能性もあります。主治医は再度の人生会議を開きましたが、本人の意思も本人の意思を尊重したいという姉や兄夫婦の意思も変わりませんでした。兄からサトルさんの長女に状況を説明したところ、長女も父の意思を尊重したいと言われたのでした。
いつ亡くなってもおかしくない緊迫した状況の中、研修医は主治医に同行してサトルさんの元を訪れたのです。翌日、サトルさんは娘さんが見守る中で息を引き取ったのですが、週末だったため、研修医は2日後の月曜日にサトルさんの死を知ったのでした。

後悔を学びへと昇華する
サトルさんの死を知った研修医は、多くの疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡ったと言います。「死ぬ前に何を考えていたのか?恐怖はあったのか?」「思い残したことや娘に伝えたいことはあったのか?」という本人の気持ち、「僕たちに何を必死に伝えようとしていたのか? 僕たちにどう在ってほしかったのか?」という医療者への思いを推し量ろうとしたそうです。
そして、「もし自分がそうなったら?」とも考えたようで「明日、自分も病気や怪我で意思や感情を表現する手段を失うかもしれない。そう思うと今、当たり前と思っていることはとても恵まれていることだ」と再認識したとのこと。さらには「最後に何を食べたいか、誰といたいか、どこで死にたいかを自分の口で言えるうちに伝えておく重要性」を痛感し、「今、自分のしていることはこれで合っているのか? 死ぬ時に自分の人生を後悔しないのか?」と今の自身の生き方についても真剣に考えたそうです。そこまで考えが至ったことで、逆に「死を考えるからこそ、今をどのように生きるのかという地に足のついた話し合いができるのではないか」と思うようになったと言います。

発表の終わりに研修医は「もっとサトルさんと関わりたかった。彼が何を思い、自分たちに何を望んでいるのかを知りたかった」との感想を述べたのですが、それに対して私は「今回は私たちも関わる期間が短く、患者さんに寄り添う十分な時間がなかった。先生の今回の後悔は、これから出会う患者さんにぜひ生かしてください」と伝えました。

当院に来るまで、ほとんどの研修医は大学病院内の医療しか知らないため、「ここで研修して初めて、退院していった患者にも自宅での生活があったことに思いが至った」と言った研修医もいます。サトルさんの死を単に「一人の患者の死」と扱うのではなく、「サトルさん」という一人の人間の死であり、その生涯を知り、生き様や死に様に思いを寄せて、感じたことや後悔を今後の患者さんに生かしてもらえるなら、研修医を受け入れた甲斐があるというものです。このような思いや感性を持つ医師が一人でも多く育ってくれることを願ってやみません。

関連動画 「あの時、何を伝えたかったのだろう?」、患者の死が研修医に教えたこと