著者:永井康徳
前回の「息を引き取る瞬間を、誰かがみていなくてもいい」という話の続きです。
看取りの時、「息を引き取るその瞬間に家族がみていなければならない」という思い込みが家族を苦しめ、自宅での看取りのハードルを上げているというお話でした。父親の死に目に立ち会えなかったことを悔やんでいた研修医のこともお話しましたが、私の講義を聞いた後の彼女の感想文をここで紹介したいと思います。
「私が医学部の学生の時に父ががんの末期であることがわかりました。父は在宅で闘病していました。ある日、私は図書館で勉強して帰ろうと思い、勉強中に母から「父の様子がおかしい!すぐに帰ってきて」と電話があり、急いで家に帰りましたが父はすでに亡くなっていたのです。
永井先生の講義を聞いて、亡くなる瞬間は誰かがみていなくていいという言葉にハッとしました。亡くなる瞬間をみていることではなく、亡くなる最期に本人が楽に逝けることが一番大切だという言葉は本当にその通りだと思いました。私の母は父が亡くなる時に、一緒の部屋にいてオムツを変えている時に気がついたら亡くなっていて、そのことをずっと悔やんでいました。私自身もそばに居られなかったことをずっと引きずっていましたが、母がそのことをずっと後悔していると言っていたのに、ただ聞くことしかできていませんでした。亡くなる時にそばにいなくてもいいということを事前に家族に伝えてあげるだけで、看取るまでや亡くなってからも気持ちがとても楽になると思います。
そして、改めて「死」を受け入れるということがとても大切なことであると感じました。私自身、父とは死ぬまでにしたいことや、どんな最期を迎えたいかといった話ができていませんでした。「死」について話すこと、亡くなることを前提とした話を本人にしていいのかという迷いがあったからです。父からは死にたくないという言葉は聞いたことがありませんでしたが、父が私に残してくれたノートに『ずっと君達と一緒にいたいけど、難しいかもしれない』という言葉が書かれていました。あまり自分のつらさを話さない父でしたが、弱音を吐ける環境をつくってあげていたら、もっと違っていたのではないかと思いました。
永井先生の講義を聞いて医療者の声かけがいかに大事かということを学びました。悩み続けるご家族に『これでよかったんですよ』と言ってあげられるような、一緒に考えて満足のいく医療を提供できる医師になりたいと思いました」
最期の瞬間は誰かがそばでみていなくてもいい。最期の瞬間にそばにいることよりも、むしろ亡くなるまでの間に何をしてあげられたのか、その人の想いに寄り添えたのかの方が大切だと私は考えています。そのためにも、患者さん本人もご家族も、そして患者さんに関わる医療・介護従事者もまずは「患者の死に向き合うこと」です。研修医の感想文の中にも、死を受け入れることの大切さに気づいたことが書かれています。
しかし、患者さん本人に余命について話すのは、医師といえどもハードルが高いものです。そのためなのか、病院では今でも、病状や余命を患者さんの家族には話しても、患者さん自身には伝えないことの方が多いようです。
私は、自分の病状や予後について本当のことを告げられずに退院し、自宅に帰ってきた患者さんには「誰もが、いつかは死ぬこと」、そして「限られた命」であることをお話しした上で、このような質問を必ずするようにしています。
「これから亡くなるまでの療養の間、楽な方がいいですか?それとも多少しんどくても1分1秒でも長く生きる方がよいですか?」
告知に際して、死に向き合う必要があるからと具体的な日数を患者さんに告げる必要はないのです。しかし、話をするタイミングや話し方には、細心の注意を払います。相手の目を見て話し、相手の反応を見ながら、こちらの話し方を変えたり、言葉を選んだり等、対応を変えます。相手のちょっとした反応も逃さないように集中力を高めてはいますが、決して怖がらせたり、突き放した事務的な口調にならないように気を付けています。
まず、残された命が限りあるものだと伝えること。その上で、少しでも長く生きるために治療を続けたいのか、それとも体を楽にすることを優先するのかを考えてもらいます。「楽な方がよいなら、在宅医療ではとことん楽なことを優先していきます」とお話しし、「多少しんどくても、1分1秒でも長く生きていたい」という方には、最後は入院して延命治療を受ける選択をした方がよいかもしれないと説明します。
亡くなる前に患者さん本人が受けたい治療やケアの大まかな方向性を患者さん本人に聞いておくのです。本人の意思を知れば、家族はその意思を尊重することができ、亡くなった後も「本人が望むことをしてあげられたのだから・・・」と後悔することが少なくなります。
死を避けるのではなく、しっかりと死に向き合い、亡くなるまでよりよく生きることを考えていくことが大切だと思います。
痛みがあると、何かをやろうという気持ちも湧いてきませんが、痛みがなくなって体が楽になるとやりたいことも出てくるものです。在宅療養では、まずは痛みなく、楽に過ごしていただき、そこで患者さんにやりたいことをやってもらいます。お酒が飲みたい、たばこが吸いたいなど、病院では禁止されていることも自宅では制限されません。患者さんがそのとき望むことを、できるかぎり叶えるようにご家族と一緒に多職種で協力してサポートするのです。
そして、病状が変化するたびに、患者さんが取り得るすべての選択肢を患者さん本人とご家族に提示して、意思決定のお手伝いをします。このような過程を経ることで、患者さんが亡くなった後に「あの時、入院していれば良かったのではないか」「あの時、点滴をしていれば、もっと生きていられたのではないか」とご家族に後悔が生じたとしても、「私たちと一緒に悩んで、十分考えた上で出した結論だったのですから、あれで正解だったのですよ」と声をかけて、ご家族の心の負担を少しでも軽くできるのです。
息を引き取る瞬間をみていてもいいけど、みていなくてもいい。亡くなるその時にそばに居なくても、それまでに十分に寄り添い、最後にやりたいことを叶えてあげられたと残された家族が思えるだけの一連のサポートをすることで、「亡くなったけれども、その死に納得できる」という看取りが可能になるのだと思います。