著者:永井康徳
外来診療を行わない在宅医療専門のクリニックを開業してから20年以上経ちました。愛媛県で初の在宅医療専門クリニックだったのですが、20年の間に市内にも同様のクリニックが複数でき、全国でも増えました。また、介護保険や医療保険など、国は制度の面でも在宅医療を後押ししています。20年前も8割でしたが、今も7割くらいが病院で亡くなっているのです。そんなに変わらないのです。
厚生労働省などの各種の調査によると、高齢者の7割から8割もの人が、可能であるなら終末期を自宅で過ごし、自宅で最期を迎えたいと希望しています。国民も希望し、在宅医療を行うクリニックも増え、国の制度も後押ししているにも関わらず、なぜ、在宅医療や自宅での看取りは広がらないのでしょうか?その理由を私なりに考えてみました。
1つ目は、病院の医療従事者が、在宅医療や自宅での看取りについて知らないことが挙げられます。病院の医師や看護師などの医療従事者は、在宅医療の経験がほとんどありません。どのように在宅医療で診ていけるのか、自宅での看取りがどのようなものなのかをイメージできないのです。そのため、患者や家族が家で死にたいと希望しても、退院して自宅に戻る道すじができないことが多くあるのだと思います。
たんぽぽクリニックでは、この問題を解決するために入院病床「たんぽぽのおうち」を開設しました。すると在宅医療専門の時には紹介されなかったような、重度の患者が病院から次々と紹介されるようになったのです。病院の医療従事者は、在宅療養のイメージはできなくても、「転院」ならイメージができるのでしょう。
そこで、当院の病床に転院してもらってから、私たちで在宅療養への移行支援を行うようにしました。在宅療養に移行するために最も大切なのは、亡くなるまで治療し続けるのではなく、「いつかは死ぬ」ということに向き合うこと。どこでどのような最期を迎えたいのかを患者さんとご家族、医療や介護の専門職が一緒になって話し合うのです。そして、患者さんもご家族も自宅に帰ることを決断したのなら、その在宅療養のサポートを医療・介護の専門職が一丸となって行うのです。患者さん自身とご家族が死に向き合うことができたならば、どのような状態であっても家に帰ることができると思っています。
2つ目は、「死に向き合えないこと」が引き起こしている問題です。患者さん本人に十分な告知がされていないのです。今の時代ですから、さすがに理解できる患者さんには「がん」という病名告知はされています。しかし、死に向き合った告知がされていない人が多いのです。「あと生きられて半年かと思います」といったような予後告知は家族だけにされ、患者さんには「かわいそうだから」と告知されません。患者自身が自分の命について知らされず、自分の知らないところで治療やケアの方針が決められていくのです。患者さんに告知をしないのは、医師自身が患者の死に向き合えていないからだと思います。しかし、医師が患者の死に向き合わなければ、患者さんも家族も死に向き合えるはずがありません。
医師が患者の死に向き合えないのは、医学教育や医師の生涯教育でも教えられていないからだと思います。日本の医療は「病気を治すこと」を目指して発展してきました。そのために「死は医療の敗北」と考えてしまうのです。しかし、超高齢社会を経て多死社会になろうとする現代、亡くなる方の大多数が高齢者で、加齢や老衰のために亡くなる時代となっても、亡くなるまで治し続ける医療が求められるのでしょうか?
その象徴とも言えるのが、老衰や亡くなる前に食べられなくなったという理由で行われる点滴や人工栄養です。「死に向かいつつあるから食べられなくなっている、だから自然のままにみていきましょう」とはならず、「食べられないのであれば、何とかして他の方法で水分や栄養を取らなければならない」と考えてしまうのです。
亡くなる前に点滴や人工栄養をしなければ、浮腫も出ず、吸引も必要ありません。枯れるように穏やかに過ごし、旅立つことができます。しかし、1分1秒でも長く生きて、そばにいてほしいと願う家族と、「患者の死は敗北」と考えてしまう医療者側の思いがそれを阻んでいるとしたら・・・死に向き合わないことの弊害を理解いただけるのではないでしょうか。
医師が患者の死に向き合い、患者さんやご家族が「死」に向き合えるように支援をすると同時に、国民一人一人が「死」や「看取り」の意識を変えていくことで、これからの日本人の生き方や逝き方が変わっていくのだと思います。
いまだ7割の人が病院で亡くなる日本社会で、在宅医療や自宅での看取りを普及していくのはまだまだ道半ばではありますが、生き方や逝き方も含めた医療の在り方をこれからも探り、伝えていきたいと思います。