著者:永井康徳
医療法人ゆうの森には、愛媛県松山市にある本院・たんぽぽクリニックと、本院から約90km離れた町に分院のたんぽぽ俵津診療所があります。分院がある西予市明浜町俵津地区は人口1,200人ほどの半農半漁の小さな町です。
タケオさんがたんぽぽ俵津診療所の外来を初めて受診したのは、私が分院担当の日のこと。タケオさんは82歳でしたが、快活でよくおしゃべりをする元気なおじいさんといった印象でした。血痰が出たというのでレントゲン検査をしたところ、精密検査が必要な状態だったのです。そこで隣接市のA総合病院に紹介状を書き、受診してもらうことにしました。タケオさんは引退して20年が経っているとはいえ、元医療従事者。検査や診断、病院のシステムのことはよく理解されているので安心していました。
しかし、翌週の外来で話を伺うと、タケオさんは病院を受診しなかったというのです。「紹介された病院では十分な検査ができないから、松山市のB病院に行けと言われた。行こうかと思ったけど、病院でコロナに罹るのも心配だし、もう一度話を聞いて病院受診をするかどうか決めたい」とのこと。そこで私はレントゲン画像を見せながら、肺炎か結核、腫瘍の可能性があり、まずはしっかりした診断がされなければ、治療ができないこと、コロナ云々よりもとにかく病院受診が大事だということを懇々と説明し、タケオさんも納得されたのでした。
さらに翌週の外来では、タケオさんはA病院でもB病院でもなく、隣接市のC病院を受診し、肺がんの末期で手の施しようがないと言われたとのことで、神妙な面持ちで「私は天寿を全うしたいと思っています。この度は皆さんに大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と話されたのでした。ただ、肺の感染症の可能性もあるとの結果だったので精査を提案したのですが、総合病院への受診は希望されませんでした。そして、肺がんへの積極的な治療は希望せず、当院で緩和ケアをを受けたいとも言われたのでした。
私はタケオさんの話を伺いながら、「この人は自分の死を受け入れているし、スムーズに在宅医療に移って自宅での看取りもできるだろう」と考えていたのですが、そこからは一筋縄ではいかなかったのです。
それからしばらく経っても外来に来ないため、こちらが心配になって連絡したところ、血痰が治ったことで服薬を自己判断で中止し、他の医療機関も受診せずに過ごしているとのことでした。症状がなくても定期的に受診した方がいいので、当院でなくてもどこかで診てもらうことや、治療を希望せずに自然のままに過ごすというなら、無理に検査に行くこともないので今の良い時間を楽しむこと、もし熱や血痰が出たり痛みが出始めたら、早めに受診することを伝えました。そしてタケオさんが1年ぶりに外来に来られた時には、肺がんの割に進行が遅いので別の病気の可能性もあると考えて、C病院で再度検査を受けるようにと紹介状を書いて渡したのでした。
さらに3ヶ月後、タケオさんがしんどそうな様子で外来にやってきました。「呼吸がしんどくなってきたので、昨日、妻がかかっている隣接市のD内科でCTを撮ってもらったら肺炎と言われた。息がしんどいので酸素を手配してほしい」と言うのです。紹介状を書いたC病院は受診しないまま放置し、その後、具合が悪くなったからと妻のかかりつけ医で検査をしたのです。私は内心で「またか」と思いつつも、D内科の医師に電話で話を聞くと、「肺炎のようだが、腫瘍マーカーは高値なので悪性腫瘍が強く疑われる。病院受診と入院を勧めたが、コロナが怖いのでと強く拒否された」とのことでした。
在宅酸素療法をすぐに始めましたが、肺炎なのか肺がんなのかは、はっきりさせたいところです。しかし、タケオさんは「コロナに感染するのが怖いから病院を受診したくない」と頑なに拒否したまま、外来診療から訪問診療に切り替わりました。
私の指示には従わず、あちこちの病院を好き勝手に受診してみるものの、結局戻ってくるタケオさんは「面倒な患者さん」ではありましたが、「憎めない患者さん」でもあったのです。
当初は自宅看取りと言っていたタケオさんですが、家族の負担を考えたのか「そんなことは言っていない」と言われるので、病院で最期を迎えたいと考えているなら、看取りまで診てくれて、検査もできる隣接市のE病院を一度は受診した方が良いと勧めてみました。その方が最後の受け入れがスムーズになるからです。タケオさんは今回は素直に受診されたのですが、今度は「最期はE病院でなく、自分の古巣でもあるA病院がいい」と言い出したのです。しかし、A病院ではタケオさんを診られる専門医がいないということで引き受けてはくれませんでした。
この頃、腫瘍が反回神経を圧迫して、タケオさんには嗄声や嚥下障害が出ていました。「今は片側だけだが、両側の反回神経が圧迫されて麻痺すると呼吸ができなくなるけれども、そうなったら楽に逝くことができるから」という厳しい予後も、私は隠さずにタケオさんに伝えていました。そして、「点滴は痰を増やしてしんどくするだけなので、口から食べられるだけ食べましょう」ということを何度も説明し、本人もその度に「わかった」と言っていたのでした。
しかし、ある日、タケオさんが「口から食べられないのに点滴をしないなんて、わしに死ねというのか!」と怒ったのです。そんな時は私も「いや、死ぬんですよ。どんな死に方がしたいのか、最期までどう生きたいのかという話をずっとしてきましたよね」と、あえて死をごまかすような言い方はしませんでした。指示には素直に従わないタケオさんですが、このようなストレートなやりとりができる信頼関係はあったのです。もちろん、体に負担にならない量の点滴は希望通り行いました。
また別の日、「今からE病院に入院したい、すぐに手配してくれ」と連絡があり、救急病院でないE病院に即日で入院できるように必死で段取りをしたにもかかわらず、「E病院はナースコールを押してもすぐには来てくれないから、だめだ。家が一番」と入院翌日にしれっと自宅に戻って来たこともありました。そんなタケオさんも、初診から2年が経った頃に自宅で息を引き取りました。
ここには書き尽くせないほどのワガママがあった患者さんですが、もし、タケオさんを受け入れ困難な患者として突き放していたらどうなっていたのだろう?と今でも考えることがあります。元医療従事者であっても、最初は自分の病気や死を受け入れられたとしても、病状が進んで呼吸が苦しくなり、死が現実に迫ってきた時には、判断が二転三転するのです。「指示に従わないし、以前言っていたことと違うことを言う」などと医療者側が腹を立てたりせずに、ワガママも「気持ちの揺れ動きの表れ」だと捉えたいものです。「これくらいの揺れ動きはあるよね」と許容し、手のひらの上で患者さんを転がすくらいの包容力を持てるか・・・医療者は日々、度量を試されているのだと思っておいたほうが良いように思います。