著者:永井康徳
「Dr.コトー診療所」というテレビドラマを覚えているでしょうか?2003年から2006年頃まで放映され、昨年末には映画化もされました。高度な医療機器がない離島の診療所に自らの意志で赴任した主人公の医師(Dr.コトー)は、必要とあらば船上や設備のない診療所でも難しい手術をやってのけるという天才外科医です。
当院は愛媛県の県庁所在地である松山市に本院があり、約100Km離れた県南西部の人口1200人の海辺の町に別院のたんぽぽ俵津診療所があります。12年ほど前に地域唯一の公立診療所の閉鎖が決まり、無医地区になる危機があったのですが、縁あってその診療所を当院が引き継ぎました。無医地区に開設した診療所という点では、Dr.コトー診療所と同じです。だからと言って、Dr.コトーのような万能な診療所を目指すつもりは最初からありませんでした。高度な治療や手術が必要な患者までを診療所で対処しようとせず、必要があるなら医療と設備の整った松山市や近隣市の病院に繋ぐようにしているのです。
私は医療には『Doingの医療』と『Beingの医療』があると常々考え、職員にも話しています。『Doingの医療』は医療者による施す医療で、その最たるものが救急医療です。瀕死状態の患者の救命が最優先で、そのために患者の意思や思いよりも治療が優先されます。そして、対極にあるのが患者に寄り添う、伴走する『Beingの医療』です。まず患者の考えや意思が最優先で、それらを実現させるために必要な医療やケアを提供するというものです。ただし、『Doingの医療』と『Beingの医療』に優劣はありません。患者さんのために使い分ける必要があるだけです。私は、在宅医療は究極の『Beingの医療』だと考えています。
住民にとっては、もしかしたらドラマのように町の診療所で何もかもやってくれる方が楽で良いのかもしれません。ただ、お産や手術、高度な治療を設備のない診療所で対応しよう、治療を突き詰めようとするなら、それは『Doingの僻地医療』だと私は考えます。『Doingの僻地医療』を求めると、過酷な環境でも手術を成功させられるようなスーパー医師でないと対応できず、一般的な医師では務まりません。しかしながら、患者が高度な検査や治療を望めば、町の大きな病院に紹介し、高度な治療よりも在宅で可能な医療を受けながら自宅で最期まで過ごしたいと望めば訪問診療を行う、いわば『Beingの僻地医療』ならば、スーパー医師でなく一般的な医師でも務められるのです。
ただ、僻地医療には、医師が生涯をその地に捧げないと成立しないという課題もありました。いくら志が高い医師でも、家族のことまで考えると二の足を踏む問題です。これを解決するために、たんぽぽ俵津診療所では本院から曜日毎に医師を派遣するシステムを構築したのです。医師は、担当曜日の朝に赴任してその夜を当地で過ごして夜間対応に備え、翌朝には次の医師と交代して、本院に戻って勤務をします。この方式なら、僻地勤務のハードルが下がります。しかし、それでは医師によって治療方針が違ってくるのでは?という次なる問題が起こるのですが、その解決にも、毎朝の全体ミーティングが役立っているのです。オンラインで繋いで別院の全職員もミーティングに参加し、分院の患者についても全員で話し合って情報の共有と治療を含めたケア方針の統一を図っています。
さらに言うと、このミーティングには医療を平準化できるという側面もあります。複数名の医師がいると、専門も違えば、経験やスキルもまちまちです。毎朝全員で話し合うことで、医師の判断ミスを防げますし、多職種も医師をフォローしてくれるため、医師も安心して勤務できます。
分院も開院当初は行きたがらない医師が多かったのですが、地域と繋がり、医師の存在意義を肌で感じられる僻地での診療はとてもやりがいがあるため、すぐに人気の部署になりました。興味を持った医師が自分もやりたい!と手を挙げても、すでに行っている医師が交代したがらないほどです。
なり手が少なく社会問題になっている僻地医療も、このような 『Beingの僻地医療』を目指せば、解決につながるのではないでしょうか。