著者:永井康徳
まず皆さんに質問です。
入院中の患者さんが「家に帰ろう」と決心する、あるいはご家族が「家に連れて帰って看取ろう」と決心するために、いちばん必要なものは何だと思いますか?
私は「安心感」だと考えています。
病院は医療者が常駐して設備も揃っていて、患者さんにとっては不安のない場所です。そこを出て家で過ごすとなると、「何かあったとき誰が診てくれるのか」「医療機器はどうするのか」「家族だけで大丈夫なのか」、心配が尽きません。そして「帰りたいけど、やっぱり無理だ」と諦めてしまう。
この不安をどう払拭するかが、在宅医療のプロとしての腕の見せどころなのです。
今回ご紹介するのは、89歳のイサムさん(仮名)です。地方銀行で支店長まで務めた、叩き上げの銀行マン。妻と娘二人、女性だけの家族を支えてきた大黒柱でした。
2ヶ月前から訪問診療で関わり始め、廃用症候群はありましたが、歩行器で移動でき、刻み食なら自分で食べられ、会話もできていました。
ところが1ヶ月後、誤嚥性肺炎になります。ご本人は家で過ごしたかったのですが、ご家族の希望で急性期病院に入院。肺炎は治ったものの、今度は多量の痰が出て、24時間吸引が必要な状態になってしまいました。
頻回な吸引が必要だと施設は受け入れてくれない。ご家族も介護は無理だと考えた。そこで一旦、当院の病床「たんぽぽのおうち」に転院して、今後を考えることになりました。
転院時のイサムさんは、車椅子にも移乗できないほど弱っていて、絶食で1日1000mlの点滴、1〜2時間に1回の吸引が必要でした。しかも当時はコロナ禍。幼いひ孫さんが来ても面会できない。60代の娘さん二人は、家に連れて帰るか、病床で看取るか、本当に悩んでおられました。
ここからが今回の本題です。
転院4日目、主治医のA医師がご家族に説明しました。
「点滴を減らしましたが、吸引回数は減っていません。家に帰れば家族で看てあげられますが、痰吸引のために訪問看護師を呼んでも、到着までどうしても時間がかかります。その間、苦しむイサムさんを見守るしかないというストレスがあると思います。点滴を中止しても1日3〜4回の吸引は必要で、緊急訪問が何度も必要になるでしょう」
どうでしょうか。言っていることは全部正しいんです。嘘は一つもない。でもこの説明を聞いたご家族は、「家には連れて帰りません。病床で看取ります」と言われました。
私は正直、残念に思いました。
ところが翌日、驚くことが起こります。
病床で、懐かしい方と再会したのです。当院が「点滴をやめて、食べたいものを食べて過ごす」という終末期の食支援を本格的に始めた頃の患者さんの、奥さんでした。なんとその方が、イサムさんの奥さんの従姉妹だったのです。
これは良い機会だと思って、従姉妹さんも交えてもう一度、ご家族に説明しました。
まず、従姉妹さんのご主人がイサムさんと同じような状態だったこと。でも家に戻って点滴をやめたら口から食べられるようになり、最期まで好きなものを食べて家で過ごせたこと。それを話した上で、こう伝えました。
「イサムさんも家に帰りたい、ご家族も連れて帰りたいと思っているなら、家で看てあげたらどうでしょう。今の点滴を続けても余命は2週間程度、やめたら1週間程度です。どんな最期を迎えさせてあげたいか、もう一度考えてみませんか。家に帰ったら、会わせたい人に自由に会わせてあげられますよ」
そして「最期の3日間」という私のエッセイのコピーをお渡ししました。
話している途中から、ご家族の表情が変わっていくのが分かりました。そして話し終える頃には、「点滴を中止してください。家に連れて帰ります」と決心されたのです。
実際、家に帰ってからも吸引は必要でした。でも入院中に看護師が指導して、娘さんたちは口腔内の吸引ができるようになっていましたし、訪問看護師は夜間でも早朝でも駆けつけたので、何の問題も起こりませんでした。
イサムさんは家に戻った途端に笑顔になり、訪問した若い研修医に握手を求めるほど活気が戻りました。娘夫婦、孫、ひ孫、たくさんの家族が訪れて、とても賑やかな時間を過ごされ、最期も大勢に見守られて旅立たれました。
娘さんはこう言われました。「父は人が好きで、みんなが集まったら喜んで、飲めや食べやと歓迎する人でした」。
さて、A医師の説明と、私の説明。何が違ったのでしょうか。
A医師は、自宅のリスクをしっかり伝えて、覚悟を持って選んでほしかったのかもしれません。それ自体は間違いではない。でも結果として、ご家族は不安の方が大きくなり、家で看取る自信を失ってしまいました。
患者さんやご家族の希望を後押しするなら、「家に帰っても大丈夫なんだ」と安心してもらえるように、事例も交えて説明し、自信を持ってもらうことが大切です。
医療や介護の現場では、専門職の言葉が患者さんとご家族の人生を大きく左右します。だから私は、大切なことを伝えるときは、命懸けで、全身全霊で伝えるようにしています。
説明のときに重視するのは、リスクか、安心か。患者さん・ご家族が安心できるように説明しましょう。